財閥の物語

三菱財閥はなぜ国に選ばれた?明治の海運と補助金の秘密

三菱財閥はなぜ国に選ばれた?明治の海運と補助金の秘密

日本がまだ近代国家として歩み始めた明治初期。政府は、荒れた海を越えて貿易立国を目指していた。そのパートナーに選ばれたのが「三菱」──一介の商人・岩崎弥太郎が築いた新興企業だった。彼はいかにして国家の信頼を勝ち取り、海運業の覇者となったのか?そこには「補助金」と「野心」が交錯する、壮大な経済ドラマがあった。

想定読者:社会人・学生/難易度:★★★☆☆/読了時間:約10分

目次

  • ① 時代背景とキーマン
  • ② 事件・制度・ビジネスの仕組み
  • ③ お金の流れとインパクト
  • ④ 意外な裏話・人間ドラマ
  • ⑤ いま私たちに効く教訓(3点)

① 時代背景とキーマン

1870年代、日本は明治維新によって封建制度から近代国家へと転換を進めていた。国の最優先課題は「経済の自立」。その柱の一つが「海運」だった。当時の日本は蒸気船を持たず、外国商社──特にイギリスのP&O社に頼りきり。国内航路も外国船に占拠され、国家の“物流”が他国の掌中にあったのだ。

そんな中、登場したのが土佐出身の一商人、岩崎弥太郎である。彼は坂本龍馬が設立した「亀山社中」(のちの海援隊)の流れを汲み、商才と冒険心を武器に海運業へ参入する。最初は中古船3隻の弱小商会。しかし弥太郎には「国家を動かすビジネス」を作るという壮大な野望があった。

② 事件・制度・ビジネスの仕組み

明治政府が掲げたのは「殖産興業」──つまり民間の力で産業を興す政策。その中で海運業は国家事業と見なされ、補助金制度が設けられた。1875年、政府は新設の「郵便汽船三菱会社」と契約を結び、外国航路の運航を委託。年間およそ25万円(現在の数十億円規模)の補助金を支払った。

これは単なる「援助」ではなく、明確な“国策契約”だった。弥太郎は補助金を受け取る代わりに、国家の命令に従って航路を維持する義務を負う。つまり、政府が「半官企業」として三菱を育てた形だ。

さらに弥太郎は競合を徹底的に排除する。特に「共同運輸会社」との航路競争では、赤字覚悟の値下げ合戦を展開。やがて政府が仲裁し、両社を合併させたのが「日本郵船」である。三菱はここで事実上の勝者となり、国家海運の中枢を担う地位を確立した。

③ お金の流れとインパクト

この補助金スキームは、現代でいう「官民連携(PPP)」の先駆けだった。政府が“リスクマネー”を出し、民間が運営ノウハウで応える。国家の輸送基盤を短期間で整える合理的な手法だったと言える。

一方で、「民間企業が国からカネをもらうのは不公平だ」という批判も強かった。実際、当時の新聞『郵便報知』は「国策に名を借りた独占」と痛烈に批判している。しかし弥太郎は怯まない。彼は「民の利より国の利を」と豪語し、あくまで国益を前面に掲げた。

結果的に三菱は、造船・保険・金融・鉱業などへと多角化。政府との信頼を背景に、巨大コングロマリットへの道を突き進む。今日、私たちが「財閥」と呼ぶビジネスモデルの原型が、この時代に出来上がったのだ。

④ 意外な裏話・人間ドラマ

岩崎弥太郎は、国の支援を得ながらも決して“おとなしい経営者”ではなかった。むしろ権力との距離を冷静に測りながら、巧妙に駆け引きを続けた人物だ。補助金を受け取りながらも、政府高官との癒着を避け、三菱の「自主独立」の姿勢を崩さなかった。

その姿勢を象徴するエピソードが、1877年の西南戦争である。政府は三菱に輸送船団の提供を要請。弥太郎は即座に応じ、熊本方面へ物資と兵員を運ぶ任務を果たした。戦後、政府から多額の報奨金を得たが、彼は部下に「国家のための仕事に値札をつけるな」と語ったという。

また、弥太郎の弟・弥之助は財務畑を統括し、企業経営を科学的に整備した人物。彼の登用によって三菱は単なる「豪商」から「近代企業」へと変貌する。まさに兄弟で“明治の企業革命”を成し遂げたのである。

⑤ いま私たちに効く教訓(3点)

  1. 国策と企業の距離感を保つこと。
    国の支援を受けることは悪ではない。しかし、依存すれば脆弱になる。岩崎弥太郎のように「支援を力に変え、独立を保つ姿勢」が重要だ。
  2. 競争より“連携”が未来をつくる。
    三菱と共同運輸の合併に見るように、過度な競争は共倒れを招く。日本郵船の誕生は、協調による国益の最大化の好例だった。
  3. ビジョンがあれば国家をも動かせる。
    小商人にすぎなかった弥太郎が国策企業のトップになれたのは、「海運で日本を豊かにする」という明確なビジョンがあったからだ。

よくある質問

Q1:三菱以外にも政府の支援を受けた企業はありましたか?

A:はい。例えば「官営富岡製糸場」や「大阪造幣局」など、明治初期は国が主導して企業を設立し、のちに民間へ払い下げる「官営→民営」モデルが一般的でした。三井や住友もその波に乗って成長しています。

Q2:補助金に依存した三菱は“国の操り人形”だったのでしょうか?

A:そうではありません。三菱は政府の意向を汲みつつ、常に「自分たちの利益と国の利益が重なるように設計」していました。だからこそ、戦後も三菱グループとして存続できたのです。

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