住友と銅山:資源が作る“国家インフラ”
明治初期、日本が近代国家へと歩みを進める中で、ひとつの山が国を動かした――愛媛県の別子銅山である。住友家はこの銅山を通じ、単なる鉱山経営を超えて「資源で国を支える」モデルを築き上げた。国家と企業、理想と利益。その狭間で戦った男たちの物語を追う。
目次
- 時代背景とキーマン
- 事件・制度・ビジネスの仕組み
- お金の流れとインパクト
- 意外な裏話・人間ドラマ
- いま私たちに効く教訓(3点)
① 時代背景とキーマン
住友家の歴史は、戦国末期に京都で薬商として始まった。創業者・住友政友は「利をもって義を忘れず」という家訓を残し、のちの住友精神の原点となる。この言葉には「利益を追っても、正義を損なうな」という意味が込められていた。
江戸時代、住友家は銅の精錬で頭角を現す。特に別子銅山(現在の愛媛県新居浜市)は、延宝年間に開山され、国内最大級の銅産出量を誇った。やがてこの銅が、明治日本の“産業の血液”となる。
明治維新後、住友家を支えたのが広瀬宰平(ひろせさいへい)である。彼は武士から転じた経営者で、旧体制を抜け出し、科学技術と経営を融合させた「近代鉱山経営」の先駆者だった。
② 事件・制度・ビジネスの仕組み
当時の日本政府は富国強兵を掲げ、軍需・鉄道・造船などの基盤産業を急速に整備していた。しかし、そのための「金属資源」が圧倒的に不足していた。特に銅は電線や砲弾に不可欠。国内供給なくして近代化はあり得なかった。
広瀬宰平は、別子銅山の再生に挑む。鉱山は老朽化し、坑道崩落や鉱毒問題に苦しんでいた。彼は西洋式の採鉱技術を導入し、労働者教育や安全対策を整備。さらに、精錬技術を革新するため、イギリスから最新炉を輸入する。
その結果、産出量は明治10年代で約3倍に跳ね上がり、日本の銅輸出の半分以上を住友が担うようになった。
政府との関係も密接だった。軍需品や造幣局への銅供給を一手に引き受けることで、住友は国家インフラの一部となったのである。
広瀬はこれを「企業の利益は国家の利益に通ず」と定義づけ、利益と公共性を両立させた。
③ お金の流れとインパクト
別子銅山からの収益は莫大だった。年間生産量は約5,000トン。政府や民間への販売で得た利益は、当時の金額で数十万両。これが現代の数千億円規模に相当する。
しかし広瀬はその金を単に内部留保せず、再投資に回した。坑道延長、輸送路の整備、港湾の拡張――インフラ整備に惜しみなく投資した。
結果、別子の町は「鉱山都市」として発展し、病院・学校・郵便局など、当時としては画期的な社会基盤が整えられた。
この循環こそが「産業資本主義のモデルケース」として注目される。資源→利益→社会投資→技術革新→再び利益、というサイクルを日本で最初に完成させたのが住友だった。
④ 意外な裏話・人間ドラマ
広瀬宰平は徹底した現場主義者で、しばしば鉱山労働者と同じ作業服で坑内に入った。
ある日、落盤事故が発生したとき、彼は自ら先頭に立って救出にあたったという。この行動により、労働者たちは「宰平様は命を懸ける殿様だ」と慕った。
しかし、その裏には葛藤もあった。明治政府は海外輸出に税をかけ、銅の価格操作を試みた。住友はその政策に反発し、政府に直談判。
広瀬は「国のために働くが、企業の自由を奪うな」と主張し、国家と企業の関係に一線を引いた。
この姿勢が、後の「住友の独立精神」として受け継がれていく。
晩年の広瀬はこう語ったという。
「銅を掘るのではない。人を掘るのだ。」
その言葉通り、彼は技術者を育て、倫理と誇りを教えた。住友の人材育成文化は、今日の「住友グループ人材哲学」の源流である。
⑤ いま私たちに効く教訓(3点)
- 資源は“売るもの”ではなく“育てるもの”。
広瀬宰平は銅を単なる商品とせず、社会インフラの原資と考えた。現代のエネルギー企業にも通じる考え方だ。 - 企業は国家の“部品”ではなく“パートナー”。
国策に従いながらも独立性を保った住友の姿勢は、今も官民連携の理想形といえる。 - 人材こそ最大の資源。
技術よりも「人を掘る」という思想は、AIや自動化の時代にも通用する。持続する組織は人の力で動く。
よくある質問
Q1:住友以外にも鉱山で成功した企業はありますか?
A:はい。古河(現・古河電工)や三菱鉱業なども明治期に銅や石炭の採掘で成長しました。特に古河は日露戦争期に軍需銅を供給し、財閥の一角を形成しました。
Q2:別子銅山は今どうなっていますか?
A:1973年に閉山しましたが、現在は「マイントピア別子」として観光・教育施設になっています。当時の坑道や精錬所跡が保存され、近代化産業遺産として国内外から注目を集めています。